井上荒野「あちらにいる鬼」を読む

瀬戸内寂聴さんの著書「寂聴 九十七歳の遺言」の中で「自分の不倫相手の作家・井上光晴の娘の井上荒野さんが書いた自分と井上光晴を題材にした小説の出来がなかなか良かった」というようなことが書いてあったので井上荒野氏の小説「あちらにいる鬼」を読みました

瀬戸内寂聴さんも井上荒野さんにたくさんアドバイスをしたということで、状況が状況だけに生々しくドロドロした内容なのかなと思ったのですが、意外や意外、さらっとした軽妙なタッチで描かれていて非常に読みやすく、読後感も悪くない良い小説でした

本書の感想

男と女の三角関係の話

長内みはる(モデル:瀬戸内寂聴)と白木篤郎(モデル:井上光晴)とその妻・白木笙子の三角関係を描いた小説です

白木篤郎は女癖が悪く、嘘ばかりつくどうしようもない人なのですが、その独特な人間的魅力から逃れられない長内みはると白木笙子の話とも言えます

各章は長内みはる目線、白木笙子目線を交互に繰り返します

二人の視点から浮かび上がる白木篤郎という男の姿は基本的には同じような「調子のよい男」な印象を受けましたが、その男に振り回される女性側の心情がとても興味深かったです

普通なら「そんな男とはさっさと縁を切れば良いのに」と思うところですが、そうはならないところが奇妙というか面白いです

そして長内みはると白木笙子はやがてお互いのことを戦友のように感じるようになります

どこまでが事実に基づいて書かれているのかは定かではありませんが、白木篤郎の破天荒ぶりや、それに振り回される女性の心情描写は小説として非常に面白かったです(たぶん大部分が事実に基づいているのではないかという印象です)

気になった小説的表現について

以下は小説の内容とは全く関係ないのですが、読んでいて気になった小説的表現をいくつか取り上げます

抜けた髪の毛はなぜ腹が立つ?

以下のような文章がありました

櫛に絡みついた幾本かの髪の毛を、しばらく見下ろす。抜けた髪の毛というものは、それが自分のものであるとわかっていても、敵意のようなものが湧いてくるのはなぜだろう。

この文章を読んだとき「わかる気がするけど、なぜだろう?」と思いました

で、少し考えてみたのですが、髪の毛が抜けるというのは煩わしいことで、理想的には抜けない方が便利なわけです

なので、髪の毛が抜けるというのは人間の不便さを表しており、上手くいかない物事と脱毛は結びつきやすいイメージのかなと思いました

燃え上がる恋はしんどい

この男がいとしい、とわたしは思った。どうしようもない男だけれど、いとしい。いとしくてしかたがない。

白木との関係を終わりにしたいと、これまでにない熱量で思ったのも、同時だった。

よくある「愛しているから、別れよう」みたいな矛盾表現の一種なのかもしれませんが、こういう表現は非常にドラマチックに響きます

日常表現に直すと「一緒にいるのは楽しいけど、ちょっと疲れる」というだけのような気もするのですが、表現次第で僕も私もドラマの主人公になれる、という感想を持ちました

「お前誰だよ?」の揺さぶり

グラスを掲げて見せると、蒔子は一瞬目を丸くしてから「飲む飲む」と答えた。私は自分のぶんも作って、妹の向かいに掛けた。

この文章で蒔子は初登場です

そのため「いきなり蒔子って誰だよ?」となります

しかしその後の表現で蒔子が妹であることがすぐにわかります

このように読者に対して小さなサプライズを仕掛けて揺さぶりをかけるのが小説家の能力なのかなと思いました

読者にちょっとストレスをかけて、すぐ解決して快感を味わってもらうという感じです

普通の文章に戻すためには、初登場のところで「妹の蒔子」と書くだけでOK

ちょっとしたアイデアで小説家の文章というのは出来上がるのだなと思いました〆

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