Tommy Emmanuelのインタビュー記事(1997年)

Tommy Emmanuel(トミーエマニュエル)のインタビュー記事(1997年)の翻訳です

この手の記事は、前提知識がないと意味が理解できない部分が多々あります

翻訳サイトでも太刀打ちできません

ですので、注釈を入れつつ、翻訳しました

記事の元ネタは以下です

The Official Tommy Emmanuel Web Site - Interview

記事は、Chet Atkins Appriciation Society (CAAS)の会長のMark Pitcherが、TommyとChetの共作アルバム「The Day Finger Pickers Took Over the World」のリリースに際して、インタビューしたものです

Tommyの生い立ちや歴史について知ることができます

以下、翻訳です(長いです)

Mark:音楽との出会いは?

Tommy:1955年のオーストラリア生まれで、4歳の時にはじめて自分のギターを手に入れました。とても安っぽくカウボーイ達の絵が描かれたやつです。そのとき父はあるバンドを経営していましたが、兄のPhileと私はギターに興味を持ち、夢中になりました。毎分78回転レコード[1]SPレコードで Marty Robbin’sの”El Paso”や Jim Reeves を聴きました。そして、 Arthur Smithの “Guitar Boogie” も。 その曲は私たちを演奏に駆り立てました。 Hank MarvinやThe Shadowsも聴きました[2]Hank MarvinはThe Shadowsのリードギタリスト。1962年か63年だったでしょうか、 Chet Atkinsの曲を初めて聴きました。何の曲だったか覚えていませんが、私を襲ったその感覚は覚えています。胸がざわめき、心臓はドキンとなり、歯を全部抜いてしまいたいと思いました [3]つまり、すごく興奮したということ。 。何と表現したら良いかわからなかったけど、自分はその曲が好きで、その曲はとても特別な曲であるということはわかりました。だからChetみたいに弾きたい、と云ったのです。もちろん、その頃のオーストラリアでは、 アメリカ人のChet AtkinsやLes Paulのような 普通じゃない演奏を学びたいと云うと、「そんなの録音の時に誤魔化しているに決まっている」と、皆でこき下ろそうとしました。だけど私は悪口には耳を貸しませんでした。Chetは本物で、彼はそれを一度に弾いている、ということを心の底から信じて疑いませんでした。彼の曲がラジオから流れてくると、そこから離れず、少しでも物音がしようものなら、そいつに向かって「うるさい!」と叫んだものでした。そして、”The Best Of Chet Atkins”というアルバムと Hank Snowとのアルバム”Reminiscing”を手に入れました。それらをボロボロになるまで聴くと、また別のアルバムを探し回りました。内陸の小さな田舎町では、レコード一枚を取り寄せるのに6ヶ月もかかりました。

Mark:オーストラリアでどのように育ったのか、また若かりし頃の音楽について教えてください。

Tommy:私はニューサウスウェールズ州マスウェルブルックの炭鉱町に生まれました。このことは、なぜ私がTravisみたいに演奏するかの説明になっているかもしれません(笑)[4]Merle Travisのこと。彼はカントリーシンガーだが、炭鉱夫としても働いていた。。次にガネダに引越し、そこで音楽を始めました。そこはニューサウスウェールズ州の東海岸側でした。そして6歳になるまでにバンドを組み、私はリズムとベースを担当しました。私はベースギターという存在を知らず、リズムギター奏者が親指でベースを弾いていると思い、いつもリズムパートにベース音をなんとか入れ込んでいました。数年後、ステージ上のあるバンドを見たとき、「あの楽器は何?」と思いました。それこそがベースギターだったのです。私たちはEmmanuel Quartetという家族バンドをしていました。姉[5]名前はVirginiaはハワイアン・ラップ・スチールギター、兄[6]名前はChrisはドラム、父が司会者、母が入口でチケットを売りました。私たちは各地をまわり、くたくたでした。米と粉ミルクの食事で命を繋いでいました。私たちは6人兄弟でした。ひもじい思いをした記憶はありませんが、物に恵まれていた記憶もありません。いつも車の後部座席かステージの上で眠っていました。

Mark:音楽を演奏することが所得の手段だった?

Tommy:その通りです。人生を通して演奏で生活を立ててきました。1966年に父が亡くなり、 Buddy Williamsが主催する有名なカントリーミュージックショーに参加しました。私たちはとても若かったので、行政の厚生機関と問題が起きてしまいました。彼らは私たちが十分な教育を受けていないと考えました。実際のところ、私たちはとても良く教育されていたし、人生の素晴らしい経験を得ている最中でした。なぜなら、公衆に向けて演奏するために外に出て行き、町から町へと旅をしていたからです。そして、パークスと呼ばれる場所に定住し、そこで一心不乱に音楽の練習を始めました。それは私がギターの練習に取り付かれ、身を捧げた11歳から42歳(笑)、もとい、11歳から14歳の時期でした。ハイスクールに通いながら、芝刈りをし、コーナーショップで働き、1週間に二晩の頻度でギターを教え、週末は演奏をしながらでも、いつも練習する時間を見つけていました。

Mark:ということは独学?

Tommy:私は一度もレッスンを受けたことのない、楽譜を読まない、独学の演奏家です。コード譜は読めます。誰かが「 1-5-7-6 」と云うと、「それって電話番号?ファックス番号もあるの?」と私は云いました。「違う!ブリッジのことだ!」って。私に関して云えば、私はずっとラッキーだったと思います。良い影響力のある人に出会ってきました。Chetは私の人生において主要な影響力を持った人物であったし、それは今でもなお変わりません。自分自身で曲を作るようになった最近では、 自分の曲を多く演奏するようにしてはいますが。それでもChetが育てたスタイルで演奏することは大きな喜びです。私にとって有利だったと思うことがひとつあって、私の国ではここ(アメリカ)ほどChetが有名ではなかったことです。だからどこで演奏するにしても、”Lady Madonna”を弾けば、みんな顎が地面に着くほど驚いて「あれは何だ?」と云ったし、私は「Chet Atkinsが25年前にやったことだよ」と答えました。”Yankee Doodle Dixie”を弾けば、スタンディングオベーションで、私は「Chetは1947年にこれをやっていたんだ」と云いました。私は人生を通して彼のことを自慢してきました。人々が「その演奏はどこから来たんだ?」と云えば、「Chet Atkinsだよ、どこだと思ってた?」と答えました。人々は未だに彼を見出し続けているのです。特に若い世代は。20年間私のコンサートに来続けているオーストラリアの人々で、未だに私の”Borsolino”の演奏をじっと見て、「どうやっているの?」と聞いてきます。私が教えると彼らは家で練習してきます。それでもやっぱり、彼らはコンサートに来て、不思議そうに見ています。まるで「確かにあなたが云うようにあなたは弾いいている」とでも云うように。それでも彼らは信じられないのです。わかりますかね?でも私の場合、初めてそのスタイル(フィンガーピッキング)を聴いたときは、とにかくそれをやりたいと思いました。実際、そのスタイルをフラットピックで始めて、なんとか弾いていました。私に秘密を暴いてくれたある男の人がいます。ダッボーで演奏していたとき、Bob Clarkという人物がいました。私はホテルの隣の部屋から”Windy and Warm”という曲が流れてくるのを聴きました。私が彼の部屋をノックすると、彼と部屋をシェアしている男がドアを開けてくれました。私は彼を追い越し、演奏している男に向かってまっすぐ進み「見せてくれないか」と云いました。彼は「こうやって弾くんだよ」と云い、弦をミュートしながら交互にベース音を弾きました。私はそれまでラジオでしかこの曲を聴いたことがなく、この人物を見るまで、誰かがこんな弾き方をしているのを見たことがありませんでした。おかげで彼のようにフラットピックを使ってベース音を交互に弾く方法を知ることができました。長いことその方法で弾いていましたが、いくつかの曲を弾こうとしたとき、この方法ではとても難しいということに気づきました。私はChetの写真を見ました。彼はサムピックを付けていました。私はそのことを知らなかったので、見た瞬間「そりゃそうだ!」となりました。私の姉は10年以上、私のそばに立って、サムピックを使ってスチールギターを弾いていたのに、私は気づきませんでした。サムピックを手に入れるとすぐに、それは誰かがドアを開けて空気を入れてくれたみたいな感じで、信じられませんでした。難しかった曲たちが自分のところに押し寄せてくる感じでした。このようにして、私は”Trambone”や”Freight Train”が弾けるようになったのです。

Mark:レコードをスロー再生させた?

Tommy:そうですね、よくやりました。Chetが”super lick”と読んでいたアルペジオを練習していたときのことを覚えています。それは”Cast your Fate to the Wind”という曲でした。私は音が聴き取れる速さになるまでレコードのトーンアームにコインを積んで、「わかった!」となりました。あなたも初めてそれを聴いたときは、頭のてっぺんから爆発しそうになりますよ!数年後の1975年には、私はかなりの数のChetの曲を弾けるようになっており、私は彼の歴史に残る素晴らしいアルバムであるJerry Reedとのアルバムを聴いていました。そしてハーモニックス[7]カスケード・ハーモニックスのことと思われる。を弾けるようになりたいとひどく思いました。しかし弾き方がわかりません。オーストラリアには弾き方を知る人はいませんでした。そして夢を見ました。夢の中でChetはグレッチのギターにタキシード姿でステージにいました。彼は座り、彼の素晴らしいハーモニックスのフレーズを弾き始めました。そして立ち去ったのです。それが夢の終わりでした。次の朝、私は起きると、弾けるようになっていました。この話は、頭がおかしいと思われるので、多くの人にはしていませんが、事実です。

Mark:どうやって弾くのかあなたは見ることができた?

Tommy:そうです、彼は夢の中で弾き方を教えてくれたのです。次の日、私は友達に電話して、演奏を聴くように云い、ハーモニックスを弾きました。電話の向こうで彼が叫ぶのが聞こえてきました。そして私の星は進みだしたのです。私は曲を書き始め、ロックバンドで演奏をしました。

Mark:音楽理論は詳しく学んだのですか?

Tommy:音楽理論は知りませんが、でもコードとかで自分が何をしているのかはわかっています。あなたが献身的なChetファンなら、新しいアルバムを買いに行くでしょう。どのアルバムでも、Chetは何かしらあなたをびっくりさせるようなことをしています。いつも素晴らしい曲と演奏がありますが、それ以外にも必ず何か新しくてびっくりするようなことが、彼のアルバムにはいつもあります。長年に渡って、私は良い結果をもたらす人物と思いがけなく出会ってきました。北オーストラリアのあるバンドで演奏する人物とスキーリゾートで出会いました。彼は近づいてきて私の演奏を見ました。彼は「あなたはそういう曲に興味があるの?」と云い、彼はJerry Reedの”Mr. Lucky”という曲を弾いてくれました。彼はその演奏で、多くのその種の技術を明らかにしてくれました。私はラッキーでした。すごい演奏をする人や自分にきっかけを与えてくれる人に出会ってきました。Jerry Reedとも一度仕事をしたことがあります。アルバムの作業を精一杯していましたが、彼は私が理解していることを実践するための正しい方法を教えてくれました。

Mark:Chetとはどのようにして出会いを果たしてのですか?

Tommy:11歳の時にオーストラリアから彼に手紙を書きました。「親愛なるChetへ、私はオーストラリアに住む子供です。あなたは私の国についてあまり知らないかもしれませんが、私はあなたのファンで・・・」と。すると彼は返事をくれたのです!学校から帰ると、母が「あなた宛の封筒が届いているわよ」と云いました。今でも持っていますが、サイン入りの写真と手紙が入っていました。1978年には、友達がChetに、私が友達の家で座ってギターを弾いているテープを送りました。Chetは私の友達に手紙で「テープを聴いたよ、いつか会えることを望んでいるとTommyに伝えてくれ」と書きました。1980年に、今こそが巡礼の時、彼に会おうと考えました。私はやって来て、ホリディインにチェックインしました。そして電話を掛けましたが、彼はゴルフに出ていました。私はとても興奮していたので、3日間眠ることができませんでした。毎日ギターを弾き、公園に行き、4日目に再び電話をしたところ、Chetが出ました。「オーストラリアから来たTommy Emmanuelです」Chetは「こんにちは、Tommy。君のテープは受け取ったよ。ちょうど演奏しているところなんだ。」と云いました。そこで私はChetのところへ行き、彼のレコードと私が写ったフォトアルバムを見せたりしました。すると彼が「ちょっと弾かないか?」と云いました。私は”Me and Bobby McGee”を弾き始めました。繰り返し部分に到達するまでに彼も参加してきて、私たちは演奏に釘付けになりました。次に彼は「上に来なよ、会ってもらいたい人がいるんだ」と云いました。そこにはLenny Breauがいました。私たち3人は3時間にわたって息つく暇もなく演奏しました。ど田舎から出てきた子供がここに来て、彼らと演奏していることが想像できますか?その夜、私はLennyを仕事場まで連れて行きました。そして13年後、私はChetに電話してメッセージを残しました。彼は折り返してきて、「私たちが演奏したあの日のことを覚えているかい・・・」と昨日のことのように云いました。私がアルバムを製作中と云うと、彼は「僕に参加して欲しいってことかい?」と云いました。そのため、私はナッシュビルに行き、アルバム”The Journey”の’Villa Anita”という曲を録音しました。私はこのことを忘れることはないでしょう。デンバーとLAの間を飛びながら、高度35,000フィートまで上がった時に母に電話し、「魔法のような出来事のお祝いに、シャンパンをちょっと飲んでいるところなんだ。」と云いました。私が次の言葉を云う前に母は、「あなたのアルバムでChetが演奏するなんて聞いていないわよ」と云いました。私は「そうだね」と云いました。彼女は私のためにとても喜んでくれました。彼女は、そのことが私にとって何を意味するのかわかっていたのです。それは最高に素晴らしい経験でした。私たちは一緒に演奏するたびに、少しずつ良くなっていきました。私がChetから学んだと感じていることは、演奏の感触や音や雰囲気以上に、私の曲や曲作りに息づいている彼が与えてくれたメロディのセンスだと思います。それは生きるための血液みたいなのもです。私は素晴らしいメロディを崇敬します。それは彼の音楽を聴くことを通して、血液に注入されたものだと思います。彼は私が今しているように、できるだけたくさんの演奏者の音楽を聴くよう勧めました。でも結局、偉大なChetのアルバムに戻ってみると、それは比類がないもので、Chetは孤高の存在です。

Mark:アルバム”The Day Finger Pickers Took Over the World”のプロジェクトはどのように始まったのですか?

Tommy:えっと、私の新しいアルバム”Midnight Drive”(Can’t Get Enoughのこと)を制作するためにアメリカに来ていた時に、1966年のナッシュビル・ファン・フェアに行きました。Chetは”How Many Sleeps”という、子守唄のような曲を弾いていました。私は別の曲を弾きましたが、その演奏や私の作った曲、私の曲の方向性について、彼が気に入ってくれた印象を持ちました。そして、コロンビア・レコードがファン・フェアでの私の演奏を聴いた後に、彼らは興奮して何か一緒にやらないかと提案してきました。そこでChetはオーストラリアに電話をくれて、一緒に何かやるのはどうかな、と何気なく云ってくれました。このようにして始まったのです。彼は私にテープを送り始め、私もテープを送り、アイデアを繋ぎ合わせて形にして、そしてアメリカに戻って録音をしました。私はベースも弾いたし、ドラムのブラシ演奏もしました。そのアルバムの中には、私が彼のために書いた”Mr. Guitar”という私の本当にお気に入りの曲も入っています。彼はその曲中でとても美しい演奏をしています。聴いてのお楽しみですよ。ほぼフィンガーピッキングに特化したアルバムを彼と制作する機会を得たことは本当にとても幸せでした。これが私がやりたかったアルバムの方向性でもあります。このアルバムでもう一度人々の目を彼に向けさせたかったのです。

Mark:オーストラリアでのあなたのキャリアはどのようなものですか?

Tommy:9枚のCDを出しています。私の演奏家としてのオーストラリアでの始まりは、突然訪れた大きな幸運でした。80年代の中頃は、アートフル・バランス・レコードというウィンダム・ヒル・レコードのようなレーベルが私に興味を示していました。その頃はニューエイジの音楽が育ち始めている時期です。私の出版社であるMCAは、アメリカに同じレーベルがあるし、そこでなら何かできるんじゃないかと云ってくれました。そしてそのレーベルから録音の依頼があり、アルバム制作を3晩で仕上げました。彼らは「商業的な」何かを依頼してきたので、”Up From Down Under”という曲を書きました。私はその曲の録音、ギター、ベース、パーカッション、および初めから終わりまでのミキシングを3時間で行いました。彼らは気に入ってくれました。”Lady Madonna”の編曲・演奏、 “Michelle”のハーモニックスによる編曲・演奏も行いました。アルバムがリリースされたその日にオーストラリアのJohn Denverとツアーを開始しました。1晩で15,000人の観客が集まり、私はソロプレイヤーとして世に出ました。その頃オーストラリアではこのような形のプレイヤーはいませんでした。アルバムはトップ10まで真っ直ぐと駆け上り、ゴールドディスクとなりました。そして今度はEMIレコードと一緒になり、ソロギタープレイヤーとしてインストアプロモーションを始めました。そして、そこでバンド活動を始めました。1990年にはオーストラリアでの1stアルバム”Dare To Be Different”を製作しました。次に”Determination”のアルバムを制作し、それは最も優れたコンテンポラリーアルバムとしてARIAミュージック・アワード(グラミー賞のようなもの)を受賞し、男性アーティストの年間最優秀賞に、演奏家としてノミネートされました。これはオーストラリアでは全くもって前代未聞のことでした。次のアルバム”The Journey”は、最も優れた大人のコンテンポラリーアルバムとして賞を受けて、再びアーティストの年間最優秀賞にノミネートされました。私の曲である”Stevies Blues”は、Jazzの作曲としての年間最優秀賞を受賞し、8年連続でJUKEマガジンの読者が選ぶ最も人気のあるギタープレイヤーに選ばれました。オーストラリア版ローリング・ストーンマガジンでは6年連続でベストプレイヤーを受賞しました。3年連続でミュージック・アワードの大使も務めました。これはオーストラリアの業界賞です。ここに座ってこういう話をいちいちするのは嫌ですね(笑)。

Mark:道半ばと思いますが、ここ数年はどこに向かっているのですか?

Tommy:私の過去のアルバムはアコースティックとエレクトリックでしたが、”Midnight Drive”(Can’t Get Enoughのこと)は全編アコースティックギターでした。今は自分のサウンドがはっきりとわかります。自分自身の声があることを感じるのです。もちろんChetやMerle TravisやJerry Reedの曲を弾くときは、彼らは最も偉大な存在です。それらの曲を弾くことはとても楽しいです。今でもワークショップをするときは、”Freight Train”から始めます。今でもその曲を弾くのが好きなのです。30年間弾き続けていますが、それでもまだ好きです。私が愛して止まないそのスタイルのすばらしい魅力がそこにはあるのでしょう。

Mark:”Initiation”というアボリジニに関する曲をあなたは演奏します。オーストラリアの遺産があなたの音楽に影響を与えることはありますか?

Tommy:もちろんです。その曲では、内陸で暮らした子供の頃を思い出して、音や雰囲気を表現しようとしています。アボリジニのお祝いの儀式であるお祭りを見たとき、それは数百万年前の人々を見ているようです。夜の砂漠の音もそうです。音がないように感じますが、あなたが波長を合わせれば、音が聞こえてきます。時にはディンゴ[8]オーストラリアの野犬の吠える声や唸る音が聞こえるかもしれません。ディジュリドゥ[9]アボリジニの金管楽器はそれらの音を表現しています。ギターやディレイ、リバーブのエフェクトを使って、雷や雨や風やその他のノイズを表現しようとしました。曲を演奏し、その演奏は物語の絵を描くように続きます。やがてその物語は旋回し、より大きく、より不気味になっていきます。この曲はこのような背景から来ています。オーストラリアで育ったことが、たぶん今でも音楽に出てきているのだと思います。それは即ち、もしあなたが演奏家になりたいのであれば、またはステージに立ちたいと思うのであれば、あなたはエンターテイナーでなければならないし、本物でなければならないということです。自分らしくあれ、というのは私が人生において学んだ最も素晴らしい教訓のひとつだと思います。それは私がChetの音楽を聴いて、必死に働いて手にした弾薬で、ただの演奏家として多くの歌手やロックバンドの中に飛び込む自信を与えてくれました。同じ聴衆の前から立ち去る自信であり、感動を与える自信であり、それを毎回実践すると信じる自信なのです。数日前に驚くべき経験をしました。タイのジャズフェスティバルで私は演奏しており、それはDavid SanbornとSergio Mendezの間の順番でした。立ち見の聴衆と私と私のギターだけで、6,000人の人々に対して、500人向けのPAセットでした。私は驚愕してしまいました。先週はメルボルンでビッグジャズバンドの前座として15,000人の前で演奏していました。前日の夜には、シドニースタジアムでの若者の集いで、25,000人の子供の前で演奏していました。私はMichael Jacksonも歌ったであろうこの場所で、フィンガースタイルの”DayTripper”を弾き、子供たちはこの孤独なギターおじさんに熱狂しました。決意を持って弾けば、切り抜けられるし、聴いてもらえるのです。

Mark:今後の予定は?

Tommy:そうですね、私のアルバムが1月にアメリカでリリースされます。また、Chetとのアルバムが2月の終わり頃にリリースされる予定です。なので、できればChetとプロモーション活動ができたら良いなと思っています。3月には私は家族と一緒にロンドンに引っ越す予定です。1月から2月にかけてはオーストラリアをツアーをします。アメリカでもっと演奏したいとも強く思っています。この演奏スタイルは、ずっと続けたいと願っているし、世界中のどこででも弾けて、どこでも楽しんでもらえるキャリアを実現できます。ここギタープレイヤーの土地では、進歩が必要であり、自分らしくあれ、です。

References

References
1 SPレコード
2 Hank MarvinはThe Shadowsのリードギタリスト
3 つまり、すごく興奮したということ。
4 Merle Travisのこと。彼はカントリーシンガーだが、炭鉱夫としても働いていた。
5 名前はVirginia
6 名前はChris
7 カスケード・ハーモニックスのことと思われる。
8 オーストラリアの野犬
9 アボリジニの金管楽器

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