司馬遼太郎「関ヶ原」を読みました
「国盗り物語」「新史太閤記」から続く戦国三部作の最後の作品です(「国盗り物語」「新史太閤記」に関する記事はこちら)
1964~1966年(司馬氏40代前半)に連載された小説で、なんと1963~1966年に書かれた「国盗り物語」と同時連載のようです
なお、「新史太閤記」の連載は1966~1968年のため、「国盗り物語」「関ヶ原」を書き終えてから、「新史太閤記」を書いたことになります
本小説の内容は、石田三成 VS 徳川家康で天下分け目の関ヶ原の戦いが決着するまでを描きます
なお、2017年には本小説を原作とした映画「関ヶ原」が主演・岡田准一で制作されています
以下、本書を読んだ感想です
石田三成 VS 徳川家康(義をとるか?利をとるか?)
石田三成側につくか?徳川家康側につくか?
ということで、六十余州の主だった諸侯の関ヶ原参戦の経緯が事細かに描かれるため、登場人物がやたら多いです
登場人物の名前を覚えるのが大変…
テーマとしては、義をとるか?利をとるか?ということがあります
義をとるならば、今は亡き豊臣秀吉の遺言を守る石田三成側につく
利をとるならば、実質の将軍としての力がある徳川家康側につく、という葛藤です
結局は、「義では飯は食えない」ということで、多くの諸侯が利をとって家康側につくことになるため、世の中は世知辛い、といった感じです
徳川家康の変貌
「国盗り物語」「新史太閤記」で登場する青年期~壮年期の家康は、律儀で義理堅い三河侍といったイメージでした
しかし、今作で登場する老年期の家康は、権謀術数の限りを弄するたぬき野郎と化しており、どこか化物じみた雰囲気さえ漂っています
いつも近臣の本多正信と「そちも悪よのう」と云って策謀を巡らしている感じです
なんでこんなにキャラが変わっているのかと戸惑いましたが、司馬史観による徳川家康とは、豊臣秀吉の死を境に人格が入れ替わるようです
そんな絶対に友達になりたくないキャラ設定の家康ですが、関ヶ原の戦が始まれば、人間らしく慌てたり、不安になったりする描写があるので、そこでやっと少し人間味が出てくるといった感じです
なお、石田三成の方は、頭は良いが人徳がないという可哀想なキャラ設定です
少し読みにくいかも
「国盗り物語」「新史太閤記」は、ずんずん出世していく話で、物語にスピード感があり、非常に読みやすいのですが、今作は「六十余州の諸侯の迷い」の描写にかなりのページ数を割いているので、全2作に比べてスピード感では劣り、読むのに少々忍耐が必要です
この「迷い」を詳細に描くことによって、天下分け目の関ヶ原の戦いの結果は実はどちらに転んでもおかしくなかった、という側面を上手く描写できているように感じました
六十余州の諸侯の中には、関ヶ原の開戦直前、あるいは開戦後・戦闘中もどちらにつこうか迷っている始末で、戦の結果は多分に偶然的な要素が含まれていると感じました
如何に策を弄して事前準備をしても、ステークホルダーの数が多いと、蓋を開けるまでは結果がわからない/結果が不安というのは、現代社会にも通じるものだと思いました〆
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