横井庄一「明日への道」を読む―28年の孤独が教えてくれる「生きる力」

いまの時代、「よっこいしょ(ういち)」というダジャレで有名な芸人——そんな誤解をされていてもおかしくないかもしれません。
しかし本当の横井庄一さんは、グアム島のジャングルで戦後28年間も生き抜いた“最後の日本兵”でした。

今回は、その横井さんが帰還後2年を経て出版した自伝『明日への道 ― 全報告 グアム島孤独の28年』(1974年)を読みました。
読後に残ったのは、「人間の可能性」と「現代人の弱さ」について深く考えさせられる感情でした。

火を絶やさぬための闘い

横井さんのサバイバル生活は、米軍に追われてグアム島の密林に逃げ込んだところから始まります。
そして、そのまま28年間もの自給自足生活が続くことになりました。

最も苦労したのは食糧ではなく、「火」だったといいます。
煙を上げれば敵に発見されるため、昼間に焚き火をすることはできない。
しかも、一度火を絶やすと、再び火を起こすのが至難の業。
最初はレンズで火薬に光を集めて火をつけていましたが、レンズを失ってからは竹を擦り合わせて火を起こすしかなくなりました。
体力の落ちた状態での火起こしは、想像を絶するほど大変だったようです。

そのため横井さんは、火を絶やさないようヤシ殻の繊維で作った火縄に火を移し、それを竹筒に垂らして持ち歩くという独自の方法を編み出しました。
火は暖を取るためではなく、主に食材を加熱するためのものでした。
生食を避けるあまり、ビタミン不足に陥ったこともあったそうです。

一方で、熱帯のグアムには自然の恵みも多く、果実や動物などを見つけて命をつないだ様子が記されています。
毒のあるソテツを工夫して食べたり、牛や豚を狩ったりと、まさに「生きるために知恵を使う」極限の生活がそこにありました。

共に戦った仲間、中畠と志知

実は横井さんは最初の20年間、戦友の中畠・志知の2名と共に生活していました。
仲間がいることで孤独は和らいだものの、食料の分配などで衝突することも多かったようです。
一緒に行動したり、別々に過ごしたりを繰り返すうちに、やがて二人は台風後の食料難の中で命を落としました。

横井さんは、「生活に余裕が出ると人は仲が悪くなる」と語ります。
本当に生きることに必死なとき、人は争わない。
この言葉には、現代社会にも通じる深い真理を感じました。

また、彼らの生き方にも性格の違いが見えます。
中畠・志知は「今日の食料を3日に分ける」慎重派。
一方で横井さんは「7割食べて、明日は明日の風が吹く」という楽天的なタイプ。
その差が、最終的な運命を分けたのかもしれません。

タロホホと明日への道

本書のあとがきが非常に胸打つものだったので、以下にそのまま引用します。

昭和47年1月24日、私の生涯にとって記念すべき日から、はや2年の歳月が夢のように消え去りました。

あの帰国の当時、そしてそれからずっと今日に至るまで、全国津々浦々からお寄せ頂きました、日本国民の皆々様の物心両面による暖かなお励ましを、私は生涯忘れることはないと思います。皆様、本当に有難うございました。心から厚くお礼を申し上げるとともに、これからの私の生涯は、全国民の皆様の暖かな御恩の万分の一に報ゆるべく老骨に鞭打って、励みたいと念願致しております。

その励みの一つとして、このつたなき記録を誠心こめて書き上げました。

今、静かな思いで、私のグアム島での生活を振り返ってみます時、私の心に浮んで来るのは、あのジャングルの中のタロホホの流れであります。

あの水によって、私は生かされたと言っても過言ではないと思います。

タロホホ川の水を飲み、ウナギやエビを恵まれ、穴の中の炎熱に苦しむ身を日に何回となく水浴させてもらった、あのなつかしい流れは、私の生命の母だと思います。

タロホホとは、現地のチャモロ語で、奇しくも「明日への道」という意味だそうです。

私の気の遠くなるような28年の歳月も、もとはといえば、今日という日の積み重ねだったと思われます。たとえ明日を知れない生命でも、今日という日を精一杯、生命の限り生きてこそ美しく、そして、価値あるものと思われます。

心の中で、明日への道を一生懸命探し求めて、限りなく今日の生命を愛し、一日、一日を歯をくいしばって生き続けた私にとって、この名は一番ふさわしく思われますので、この本を『明日への道』と名づけさせて頂きます。

最後に、この戦いで花と散られた幾百万の英霊の御魂に対し、心から感謝の黙祷を捧げると共に、全人類の悲願である”世界恒久平和への道”が一刻も一秒も早く開かれることを、熱望して止みません。

昭和49年1月24日 自宅にて 横井庄一

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